昭和24年(1949)丑年生まれのそばDa迷人は、2021年は年男です。
アレ?・久しぶりの自撮り・・・毛が無い・・・ピッカピカ~
中日新聞の2021年元旦・2面記事です。
1949(昭和24年・団塊世代最終年生まれは211万人で最多。
初めての年男だった12歳の時は・・・。ガキ大将だった小学校6年生だから、カバンを放りだして・・・毎日、川で遊んでいたなぁ~。
あの頃の農業用水は、パイプラインの暗渠ではなく、み~んな・小川だった。
2003年に絶滅危惧種に指定されたメダカなどは珍しくもなかったし、アユに板センパラさえこの小川にいた・・・季節には・蛍も乱舞し、川エビやもくず蟹までいたなぁ・・・。
ウナギなんて・・・釣り針を飲み込んじゃうから、釣れると腹が立った。
いい思い出だ。
その12年後の24歳の時は・・・。
中3の時の出会いで「ボクの子どもを生んで欲しい女性!」と一目惚れしたチャーボーと、何と何と・・・再会して・結婚した年でした。
今は天国暮らしのお義母さんに「床の間に飾って幸せにします」と約束したなぁ~。
今も時々、そば屋の女将になったチャーボーに「あれ、どうなった?」と言われています。
記念日は1月28日、普段しない化粧をして見違える人との結婚式を終え、新婚旅行のホテルで「今日が最高の日じゃ無いからね。今日は幸せのスタートの日だからね。ボクの愛は、益々深くなるからね・・・作って行こうね幸せ」なんて言っちゃった事、今も忘れていません。
が…。
必死に生きて行く毎日、悲しい思い、苦しいこと、辛い目にも・・・遭わせてしまい、嫌われるようなこと・・・を一杯してしまいました。
ごめんね・チャーボー。
72歳、古希越え6回目の年男の約束です。
益々好きになっているので・・・生きてる限り・愛し続けます。
否、生まれ変わっても愛し続けるので、又結婚してね。
こりゃぁ・・・約束ではなく、虫のいいお願いだね・宜しくお願いします。
オット・・・、3回目の年男・36歳からの期間は波瀾万丈の中でした。
長女アコちゃんに恵まれたばかりだったのに・・・最初の転職。
奈良への移動(転勤)を機に帰郷(退職)を決意したときに、坂祝農協(現JAめぐみの)の今は亡き参事さんから、義母を経由して「来て欲しい」と誘ってもらい、丁重に断るつもりで出向いた先で「君が来てくれたら企画管理課を作るから・・・」と言われ「宜しくお願いします」と間髪無く返事をしてしまったなぁ~。
「断ってくるね。行ってきます」と出たのに、真逆の返事を、男気感動だけでしてしまった。
大きな変化がありあり分かるのに、快く受け入れてくれたチャーボー、ありがとう・ごめんね。
その参事が・・・4年もしないのに事故死して風当たりが強くなり、嫌になった時、「10年後を任せる人を探している」と誘われた美濃加茂市工会に・・・、これ又、相談しないで即決返事をしてしまったね、これも忘れられません。
チャーボー、ごめんね・・・と反省の連続です。
4回目・48歳時は・・・。
10年後の期待に応えて・・・責任と正義感に燃えて・燃えて仕事に就き、商工会議所の事務局長職でした。
ところが・この責任と正義感、成果をあげて結果を残せば残すほど・・・反感を買います。
ナント・なんと・何と⁉️、事務局長職を解かれて独房勤務、約1年間ガマンしました。
が・卒サラを決意です。
でも、責任と正義感で期待に応えようと顔晴った仕事は・・・大切なところで裏切りませんでした。
出会いをいただいた多くの方々が、そば屋のオヤジになると決意したときに、嬉しい・有り難い応援で支えて下さいました。
返しきれない沢山の借りを貰ってそば屋のオヤジになりました。
悔し涙と嬉し涙で迎えた卒サラ、最高です。
大きく・大きく・・・人生が変わりました。
1日24時間。
サラリーマンだった頃には、朝7時に出勤し午前様帰宅が殆どで・・・チャーボーと一緒にいた時間はほぼ寝るときだけの毎日でしたが、そば屋のオヤジになると・・・愛するチャーボーと、毎日・四六時中一緒に過ごす生活が始まったんです。
これ・・・最高の幸せなんで~す。
でも・・・強烈な出来事がありました。
5回目の年男・60歳を過ぎた時(63歳)でした。
「そば屋・やろっかな」と、そば屋の後継を決意してくれた直後の最愛の息子を・・・亡くしました。
そば打ちは、練習中でしたが、その腕前・上達度は、そばDa迷人の比ではありませんでした。
一番難しい「均一伸し」と同じ幅での「切り揃え」の工程を難なくやってのけてしまう(天性の上手さ)のです。
そばの里深萱ふ~どは、そばDa迷人が一代限り!と始めましたが、この上達を見て、真そば流の2代目そば打ち師誕生を喜んでいました。
葬儀の席で「そばの里深萱ふ~どの2代目そば打ち師の葬儀にご参列をありがとうございます。明日からは、初代そば打ち師が、3代目そば打ち師として、そば打ちの天才だった2代目・息子の技を引き継いで行きます・・・」と訳の分からぬ挨拶をさせて貰いました。
今・・・そば打ち部屋で、息子は・・・そばDa迷人の上手く行かない均一伸しと切り幅揃えを激励してくれています。
そば打ちの天才だった長男・寛君。
いつも・・・そばDa迷人のそば打ちを見てくれています。
チャーボーの悲しみを思うと、ボクとは比較にならないことが容易に想像できます。
ボクに出来ることは・・・空でも元気!を決意しています。
空でも元気・・・ここまで来ると若さの維持が基本ですね。
栽培から自家製粉を手がけるそば屋のオヤジには、未だ未だ力が必要です。
坂祝農協に勤務していた2廻り目の年男の時は、60kgもある米俵を手鉤を使いホイホイと積み上げていました。
若かったなぁ・・・あの頃。60kgがヒョイヒョイと。
蕎麦は、米より粒が大きいので1俵が45kg、1袋(紙袋)だと22.5kgなのに・・・
頓にこの頃、重さを感じます。
大量に扱う時は・・・漢方薬「芍薬甘草湯」や経口補水薬「オーエス1」が欠かせません。
もしこれらを怠ると・・・真夜中に、太ももが・・・しかもこの作業をする時は、両太ももが攣るんです。
6回目の年男が秒読みの71歳の時、この酷い症状が起き、常備薬の芍薬甘草湯も効かなくなり、否、一旦は効きますが、30分保たずに再発し4袋の連続飲みで病院へ。
「中等度の熱中症です」との診断で治療を受けてしまいました。
体力的な加齢!を実感しました。
6回目の年男の時代は、体力的に・・・自覚と自重が必要なときが始まるんだ・・・と感じています。
さぁ~て、丑年の6回目の年男のそばDa迷人は、ここ坂祝町深萱の里で、そば屋を始める2年前に、先ず、耕作放棄地を借りてソバ栽培を開始しました。
定年より10年早く、50歳で卒サラを決め込みました。
卒サラは、2度とサラリーマンには戻らない!の決意を込めた造語です。
思い起こせば、22歳・初任給43,000円で就職したときは土曜日半ドン・週休1日でした。
因みに、日本で初めて週休2日制を導入したのは、あの松下幸之助氏(週休2日制の生みの親)で、1965年に松下電器産業(現パナソニック)でした。
これは、そばDa迷人が大学2年生の時でしたが・・・その後就職先は証券会社、転職した農協・商工会・・・と40歳になるまで、完全週休2日制には無縁の組織で働いていました。
国家公務員の完全週休制が1992(平成4)年に始まると、一気に・・・日本中が週休2日制となって行きました。
やっと休養の日が出来たんだとの感でいましたが、増えた1日は教養の日を・・・の思いでそば打ちを趣味に加えました。
そして、時は昨今、副業承認も出始めた働き方改革の時代となりました。
が・・・未だ未だ時間をお金に換えるスタイルの労働感は拭えず、賃上げ(最賃1,000円)が目玉の対策と漂います。
長い年月を掛けて、奴隷的な強制労働から時間の切り売りへと労働環境は変化して来ましたが、真の働き方改革は、生きがいの仕事で生活が出来て行くことだと考えています。
将来の不安がなくなれば、時間をお金に換えたり・貯蓄する必要がなくなり、誰かの役に立てることで今を大切に生きたい!と、誰もが思うようになるでしょう。
3回目の年男を過ぎたときに出会いを貰った・勝手に人生の師の一人と仰ぐイエローハットの創始者・鍵山秀三郎先生から「人は皆、生まれながらにして1通の封筒を授かっている。私の封筒には『掃除を通じて世の荒みを直して行け』と書いてあった。なるべく早く、開封して天命の生き方をして欲しい・・・」と教えて貰いました。
そばDa迷人の生まれながらにして授かった封筒の中身は?。
共に生きる愛する妻・チャーボーを幸せにしなさい!と。
そんなチャーボーと24時間一緒にいるそば屋のオヤジの目標は、そば好きを一人でも多く作って行くことですが、これを基本に、開発中の真そば流そば打ち技法で「日本を健康に、今再び・そばの味革命!」を生涯求めるものと定めました。
出来ても・出来なくとも・・・兎に角・顔晴りま~す。
そして、欲張りですが・・・人生最大の目標は、生まれながらにして授かった封筒の中身に記してあった「愛する妻を幸せに!」すること。
毎朝計る体組計では56歳と嬉しい表示を続けてくれていますが、体力的には・・・やっぱり衰えを感じ始めました。
毎朝計る体組計の「体内年齢」表示は・・・56歳(マイナス15歳)
そば屋のオヤジになって、毎日食べる・和食を代表する健康機能食品蕎麦で、この若さを貰っています(そば屋のオヤジになっていなかったら・・・ゾッとしています)。
6人中4人が循環器系の病で亡くなった父母と祖父母を思うと・・・残された期間は・・・。
一番長生きしてくれたのは94歳で逝った母でしたが、ボク等のことは記憶にありましたが、認知症を患い始めていました。
90歳を前にして透析を始めた頃に「もう・早く、お父ちゃんのところに行きたい」と言い始めていた母の最後の言葉!、それは「ありがとう」でした。
こんな言葉を最後の言葉として残した母には・・・やり残しはなく、感謝ばかりだったのか?。
ボクには、未だ未だ出来そうもありませんが、周りの目を気にせず、組織最小・夫婦が・・・理解し合い、協力し・助け合い「幸せだ・ありがとう」と言える最後を迎えたいと思う様な年回りだと感じています。
人生の蓄財は、金銀財宝や名声を貯めることではなく、やり残しがあっても生きた証の満足感を求めて行く事だ!と思っています。
何が起きても不思の無い歳となりましたが、生きてる限りチャーボーを幸せにする生き方極め、兎に角・空でも顔晴りま~す。
2021年元旦
そばDa迷人拝