今ふたたび、そばの味革命コラム

Column

感動の励まし・最高のエネルギー

23年目の開店記念日(2001.10.31)に・思う事・色々・・・。

10月31日は、そばの里深萱ふ~どの開店記念日です。
思い出すなぁ・・・50歳で卒サラし、先ずソバ栽培の百姓になって、その2年後にそば屋のオヤジに・・・アッと言う間の22年でした。
脱サラでは無く、40歳になるまで、そばが大っ嫌いだった男がそば屋のオヤジになるのだから!と、目標を「一人でも多くのそば好きを作ること」と定めてやってきました。
22年の月日、40歳の時に食べたショックと同じ様に「今までそばは好きでは無かったけど、そばってこんなに美味しいの!?と感じた・好きになった」等々の話しを頂いた方が数多くあります。
ある程度は・・・かも知れませんが、20年顔晴れたらなぁ~と始めたそば屋、まずまずの合格点でしょうか?。
この先は、いつ止めても(閉店)悔いはありませんが、日本の食を取巻く環境の変化(食の欧米化や食糧自給率の低下)への対応の最善策(食を通じて)こそ「ソバ(栽培)・蕎麦(製粉)・そば(製麺」であると言う思いが年を重ねる毎に強くなっています。
20周年は、コロナ禍で迎えましたが、これも5類に移行して平生を取り戻そうとしています。
さぁ~23年目から!と、若い頃の様に気張る元気は、やっぱり衰えを隠せませんが、今回の記念日は定休日と重なったので、愛する妻と二人、英気を養う旅を楽しんで、「真そば流で、日本を健康に、今再び・そばの味革命!」・11月1日の23年目の営業初日から、新しい気持ちで顔晴りま~す。

 
紅葉真っ盛りには・・・一寸遅かったかなぁ~?
信州・女神湖駐車場にて

開店23年目を意識し始めた10月6日金曜日の事でした。
女将のチャーボーが客室に出ると・・・こんな言葉を頂いたようです。
「このそば、滅茶苦茶美味しい」です。


「このそば、滅茶苦茶美味しい」をいただいたもりそば

 その後のある日の事です。
趣味でそばを打っていた頃に「そば屋をやりたいのでそば打ちを教えてくれませんか」と言い、そばDa迷人より2年程早くにそば屋のオヤジになっていたそば友から「5月に体調を壊して週に3日の営業でやっていたけど、今月いっぱいで止める事にした・・・」と電話がありました。
今月いっぱいとは、最終日が10月31日だから、我が店・そばの里深萱ふ~どの開店記念日に閉店するとの話しでした。
同年の74歳、実に淋しい電話でした。

 2023年、世界中を震撼させた新型コロナは政策的な収束期を迎えましたが、温暖化による異常気象は、確実にその変化を感じる現象が起き、各地に甚大な被害をもたらせています。
そばの里深萱ふ~どの周辺でも、10月に入っても猛暑日が続くと言う異例の記録の更新が続いていましたが、ここに来て急に朝の気温が急転し、霜降ギリギリの6℃まで下がる事があり最高気温も20℃に届かない程に急転して来ました。
余談ですが・・・ソバ(栽培)は、霜が降りると枯れてしまいます。
未だ未だこの時の深萱・そばの里のソバの花は満開で、今枯れては全滅(収穫ゼロ)です。
閑話休題。
気温が急激に変わると・・・何だか我が店は暇になります。
そんな訳で、例外なくさっぱりのスタートとなった日、パートさんの一人が「草引きに行ってきます」と出た時でした。
20代?の女性がお一人で。
寒いからでしょうか、オーダーは温かいきのこそばがセットになった「盛りのきのこ膳(挽きぐるみの盛りそばと温かいきのこそばと蕎麦の実茶漬け)」でした。
2つ目のきのこそばを持って行ったチャーボーに、最初の盛りそばの感想として「無茶苦茶美味しい!」と言って下さった様です。
これに直近した土曜日も閑散で・・・客室にはたった一組のお客様のみ。
何と何と三重県から車を飛ばして下さったお客様・ご夫婦でした。
早く着きすぎたので、隣町の犬山で時間調整の観光見物をして来て下さったとか。
そして・・・「来た甲斐があった。みんな最高に美味しいそばだった」と。
このところ、心に響く嬉しい・有り難い応援歌を頂いています。

 そば屋のオヤジと女将になったボク等も、今も外食場所は、意識してそば屋さんを選びます。


今回もやっぱりそば喰い旅行・・・。
近頃耳にする様になってきた「発芽そば」の
「おお西(信州・上田市)」さんです。

その時、食レポ芸能人の「まいうー」ほど酷くはありません(あれは反対語で「不味い!」を意味すると解釈しています)が、「美味しかった~・ご馳走様」は、挨拶言葉として使っています。
が、「滅茶苦茶」等々の形容を使った美味しい!は・・・?・考えました。
そばを食べた時の経験・感動の味を思い出しました。
子供の頃に、母に食べさせられたそば・年越しそば(大晦日の昼に八百屋で買って来たそば・これがこの辺りでは当たり前の年越しそば)が大っ嫌いで、高校生の頃から40歳になるまでそばを避けていたボクが、信州大学名誉教授の故玉井袈裟男先生に、信州名物・おやきをお腹一杯・ご馳走になった直後に、無理矢理連れて行かれて食べた信州蕎麦に「なにこれ?」と言ったのが蘇って来ました。
つまり・・・初めてそばを美味しいと感じた時の、ボクの感想言葉が「なにこれ?」でした。
「無茶苦茶美味しい!」と言って下さった女性は、一人でそば屋に来て下さるほどの方ですから、あの時のボクの様なそば嫌いではなく、そばが好きで暖簾をくぐっておられるのだろうなぁ?。
だとすると、無茶苦茶は「度外れな・・・」と理解し、美味しいに繋がって・好みの中でも初めての味と感じて貰ったのだ!と推測し喜んでいます。
その後急に忙しくなり始め、草引きに出たパートさんに戻って来て貰わなければならなくなりました。
暇だったらボクも客席に行けたのですが、これ以上の話を聞くことは叶いませんでした。

さてさて、坂祝町深萱の里を選んで、一代限りで20年出来たら良いなぁ・・・と52歳で始めましたが23年目に入ります。
そば嫌いが感動のそばに出合ってそばの虜になり、更に美味しい味は自分で打つしか無い!!と求め続けていると、好みの味極めは止まる事が無く・更に・更にと進化し続けています。
開発中の真そば流(日本中のそばの味を革命的に美味しく変えた江戸そば流を基本に始めた新そば打ち技法)は、打ち方に止まらず、石臼製粉や栽培の方法にまで、江戸そば流の教えではタブーと言われる幾つもの事に挑戦し、その教えの真逆な改善策を幾つも・幾つも組み込みました。
これが功を奏して・・・かつて日本中のそばの味を革命的に美味しく変えた江戸そば流とは別物の味になって来たなぁ~と思うようになっています。
時々、「一代限りです」と言うと、「この味は残さなあかん!」と言われる事が度々ありました。

 
真そば流そば打ち技法の後継移譲を意識して書いた本・「真そば流味革命(坂祝発)」

 そば打ちに全く興味を示さなかった息子が店を手伝う様になり、そば打ちも始めていましたが、「そば屋・やろっかなぁ~」と言い始めた時に・・・亡くしました。
その後も、「継ぐ人は?」・「弟子は?」・「何とか残して!」と有り難い励ましが続き、最大の落ち込みがあっても、ここまで続けてこられました。
70歳を迎える時には、江戸そばの本場・東京へ、後世に残す方法探しに、1月の冬休みの時期に2年続け出掛けてみました。
その次の年には、例の新型コロナ禍です。
考える時間を一杯、いただきました。
今は・・・例え規模縮小に継ぐ縮小で週1営業となっても出来るところまでやり続けて、後世への経営移譲は、焦らないでその時の状況任せで考えよう・・・真そば流が、これからの世に必要ならば、きっと何らかの変化が必然的に現れる・・・と考えることにしました。
万一現れず、そば屋が出来無くなったら・・・、真そば流の技術本を書いて残せば、思いのある人は継いでくれる事になるだろうと考えるに至りました。
加齢?ですね、最近、こんな終焉時の想定話しを何処でもするようになっています。

 定年退職となった商工会の経営指導員さんから「今日、引き継ぎで坂祝に来てるので、後で寄ります」と連絡があり、新任の職員さん(女性)と来てくれました。
「彼女の勉強にもなるから使ってやってね。難しい事でも何でも言ってやって。例の真そば流を残したいと言う事も、事業承継で取り組めるかもしれんで・・・」と。
〈早速・・・後世に残す「必要・必然」があれば表れる?の1つでしょうか?〉
数日後、この新任経営指導員さんから「事業承継支援センターの職員さん等と3人でお邪魔したいと思います」と連絡がありました。
足腰、否々身体中に痛いところのある74歳ですが、未だ未だ・・・気持ちだけは元気です。

 
毎朝の計測(体組計)で、体内年齢は、何と・何と
16歳も若く・58歳を表示!。

真そば流(技術)の後継移譲の方法は、波任せ・風任せ!、その時の状況任せで行こう、もし無ければ生涯現役のそば屋のオヤジと女将で、閉店後には本でも書くさ!と決めたばかりなのに・・・「事業承継」という形ではありますが、降ってきた話です。
「無茶苦茶美味しい!」の励ましは、例えそばの里深萱ふ~どは一代限りで閉店しても、真そば流そば打ち技法の一代限りはダメ!、この真そば流の後継移譲の方法を探せ!と言う応援歌だと考えるに至ったからです。
まぁ、これに申込んでも、店の経営移譲が(建物譲渡まで)決まる訳でもありません。
色んな方法も有りだから、話しは断らないで聞いてみよう、そしてこちらの考え・希望を話してみようと思いました。
真そば流の経営移譲の方法探し、ソロソロ具体的に!と思う様になっています。

戦後、江戸そば流技法が公開されて日本中のそばが革命的に美味しく変わった時の再来がボクの一番の夢ですが、平均健康寿命を超えたそばDa迷人に、その夢を実らせる月日は・・・少なくなっていると実感しています。
受け継いでくれた人かその次の人?の頃になって、蕎麦(世界遺産となった和食を代表する健康機能食品)が日本の主食となって、耕作放棄地の再活用が行われて国産蕎麦の栽培強化が行われ、食糧自給率が70%台(輸入が泊まっても餓死者が出ない食糧自給率)まで回復する・・・。
儚い夢かも知れませんが、事業承継の相談員さんに、この思いを大真面目にぶつけてみようと考えました。
(ここまで書いていたら・・・その日が来てしまい、当日、大真面目に考えを話しました。そばDa迷人の思いは、この制度(中小企業庁所管)の他の相談者さんとは大きな違いがあるので困られたなぁ?と感じています)
75歳を超えたら(後半年余)・・・ボクの代での真そば流極めは、一応の完成形と位置付け(真の完成形は後継移譲を受けてくれた人が探し続けてくれると期待し)て、「真そば流で、日本を健康に、今再び・そばの味革命!」本の構想固めも始めようと思い始めています。

 そもそも23年もの期間が経った開店記念日は、そば屋のオヤジになった当初は、考えに無かった期間です。
更に・更に・・・と、唯々自分好みの味を追い求めて来たそばの味に、この味は残さなきゃダメ!は、最高の励ましです。
よくもまぁ23年目!と思うものの、定年退職の無い・やることがある(=仕事)事こそ、今からの健康維持のために必要不可欠と考える様になっています。
そば屋共同経営者チャーボーとボク、どちらかが動け無くなるまで、例え週に一日だけの営業にしてでもやり続けよう!が、2人の今の考えです。
有り難いことにそばDa迷人は、未だ23kgの玄蕎麦袋が担げます。
この歳になっても「滅茶苦茶美味い」や「いつまでも続けて」・「(遠路)来て良かった」等々の嬉しい励ましをいただいています。
「真そば流の後継移譲の方法探しは、波任せ・風任せ」・「老後の健康のため・出来るところまで顔晴りま~す」、この2つは、そばの里深萱ふ~どのオヤジ・そばDa迷人の開店23目を迎えた新たな決意です。
宜しくお願いします。

そばDa迷人(そばだめいと)

夢とそばを楽しむ会

Meeting to enjoy dreams & soba

そばで日本を健康に!&日本を真の先進国に!と楽しい夢を見る会です。
会長さんや会計さん…お偉いさんは存在しません。いるのはそばの里深萱ふ~どのオヤジ・そばDa迷人が務める“用務員”さんだけ。
とにかく楽しい夢を描きましょう。